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歴史教科書が変わる、2つのきっかけ
 教科書の表現が変わるのは主に二つあり、一つは新しい歴史的発見があったとき、もう一つは学界や研究者の間で議論が進んだときだそうです。

◎ 「いい国つくろう鎌倉幕府」は通用しない!? 歴史教科書の今と昔
 (2019/11/23 17:00 AERA dot.)

 年齢を重ねても昔習ったことは覚えているもの。「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」などと、日本史の出来事を語呂合わせで暗記した人も多い。だが、研究が進み新たな学説も登場している。大きく変わった歴史教科書の今と昔を見比べ、知識をリフレッシュしてみませんか。

*  *  *

 日本最大の古墳と聞かれ、堺市の「仁徳天皇陵」とすぐに浮かんできたあなたは古代史が好きだったのかもしれない。

 この仁徳天皇陵を含む古墳49基からなる「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」は7月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)によって世界文化遺産に登録された。古墳群は4世紀後半から5世紀後半にかけてつくられ、中央集権的な国家ができていく過程がうかがい知れる。形や大きさが様々なのは、権力の強さが時期によって異なり、建造技術の発達などもあるためだ。

 なかでも仁徳天皇陵は長さが486メートルに及び、エジプトのピラミッドや中国の始皇帝陵などと並ぶ世界最大級の墓だ。名づけたのは古墳を管理する宮内庁。幕末から明治時代にかけて、『日本書紀』や平安時代の法令集『延喜式』などをもとに被葬者を指定したと言われる。

 だが、近年の教科書では、この名称を主には使わず、「大仙古墳」や「大山古墳」と表記している。実は誰が埋葬されているのか学術的には定まっておらず、仁徳天皇ではないという説も有力だ。論争のある被葬者名ではなく、地名を元にした遺跡名で呼ぶことが定着し、教科書でも採用されるようになった。

 4世紀から7世紀にかけて勢力を広げた中央政府「大和朝廷」の呼び方も変わった。いまは「ヤマト政権」と書かれることが多い。

 朝廷には「天皇が政治を行う場所」という意味もある。当時はまだ、天皇を中心とする国家はなく、組織も整っていなかった。そのため「朝廷」と呼ぶのはふさわしくないという見方が一般的になり、朝廷の代わりに、政権や王権という表現が使われるようになった。「大和」という地名と区別するために、「ヤマト」と表記されることが多くなった。

 古いお札でおなじみの聖徳太子も、最近の教科書では「厩戸王(うまやとおう)」と表現されることが増えた。

 古典で聖徳太子という呼称を確認できるのは、死後100年以上経った8世紀半ばの漢詩文集『懐風藻(かいふうそう)』だ。8世紀前半の『日本書紀』には「厩戸皇子」との記述があるが、「皇子」という尊称は聖徳太子より後の7世紀後半の天武朝以降に用いられた。

 そこで聖徳太子の時代に使われていた「王」を用いて厩戸王と呼ぶようになった。聖徳太子のころは皇太子や摂政といった制度もまだ確立されていなかったとみられ、「摂政として国を支えた」などの表現も使われなくなっている。

 東京大学史料編纂所教授で、歴史教科書も執筆する山本博文さんによると、教科書の表現が変わるのは主に二つ。一つは新しい歴史的発見があったとき、もう一つは学界や研究者の間で議論が進んだときだという。

 「新しい発見があると教科書にも割と早めに反映されます。研究者の議論に基づいて表現が変わるケースでは、新しい説が定着してから反映されることが多い。議論の方向性が二転三転し、教科書の表現が変わったり元に戻ったりすることもあります。全体として、古い時代の出来事ほど表現や見方が変わるケースが多い印象です」

 新発見によって文字通り教科書が塗り替えられた代表的な例は、最古の貨幣だ。1998年に奈良県の飛鳥池遺跡にある7世紀後半の地層から見つかった「富本銭(ふほんせん)」が、それまで最も古いとされてきた「和同開珎(わどうかいちん)」に取って代わった。

 富本銭が見つかったことで、10世紀半ばまでに国家によって作られた12種類の貨幣の総称「皇朝(本朝)十二銭」という呼称も使われなくなった。国家が鋳造した貨幣が13種類になってしまったからだ。

 鎌倉幕府がいつ成立したのかも今と昔で異なる。

 シニアにとっては、「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせがなじみ深いように、「1192年」と覚えている人が多いはずだ。

 ところが最近の研究で、鎌倉幕府は段階的に成立したとする見方が強くなった。源頼朝が東国の軍事支配権を確立した1180年のほか、朝廷に領地の支配権を認められた1183年、公文所(くもんじょ)や問注所(もんちゅうじょ)などの幕府の内部機関を固めた1184年、軍事・行政官である守護や地頭を各地に置くことが朝廷から認められた1185年などが成立年の候補になっている。

 「専門家の間でも30〜40年前から議論されていますが、決着はまだついていません。1185年に成立したとする見方が多く『いいはこ(1185)』という語呂合わせが使われることもありますが、教科書ではあいまいな表現にとどまっています」(山本さん)

 いずれにせよ、かつての1192年は、源頼朝が武家のトップである征夷大将軍に任命された年にすぎないとみられるようになった。形式より実質的な支配が確立した時期を重視することで、1192年よりも前に成立したとの見方が定着している。

 歴史上の人物の「顔」が変わった例もある。

 室町幕府を開いた足利尊氏のイメージとして、「騎馬武者像」を思い浮かべる人も多いだろう。しかし近年の研究で、別人の可能性が高いとみられるようになっている。

 騎馬武者像の人物の上に尊氏の子義詮(よしあきら)の花押があり、人物が持っている太刀の目抜きや馬具の革ひもに輪違い紋があり、別の人物としたほうが自然だと受け止められるようになったからだ。尊氏の側近の高師直(こうのもろなお)やその子師詮(もろあきら)の可能性が指摘されている。

 騎馬武者像に代わり、別の人物像が足利尊氏ではないかとみられている。その一つが左の絵(個人所蔵、栃木県立博物館提供)だ。尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉があり、尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立したことが書かれていることなどが理由だ。

 最近の教科書は、尊氏の名前そのものも「高氏」と「尊氏」を書き分けたり、併記したりするようになった。尊氏は当初、北条高時の「高」の字をもらって「高氏」と称していた。鎌倉幕府を倒した功績が認められ、倒幕後には後醍醐天皇の諱(いみな)「尊治」の一字を拝領し、「尊氏」に改めた経緯がある。高氏と尊氏を書き分けるのは、こうした歴史的な過程がわかるようにするためだ。

 先に登場した聖徳太子や源頼朝の顔もみなさん思い浮かぶだろうが、教科書や資料集では断定はしなくなっている。こうした人物像は伝聖徳太子像、伝源頼朝像などと、「伝」をつけて表記するようになった。源頼朝のイメージのもとになっている国宝「伝源頼朝像」のモデルは、足利尊氏の弟・直義(ただよし)ではないかという説もある。

 「最近20年くらいの間に美術史の研究が進歩しました。人物像に対する見方が変わる例が相次いでいます」(同)

 江戸時代以降でも変わった内容がある。

 例えば、従来の教科書では、幕府の直轄領のことを「天領」とした。最近は「幕府領」や「幕領」と書かれている。天領だと天皇の領地になってしまうからだという。

 幕府が隠れキリシタンを見つけるために行っていた「踏み絵」は「絵踏(えぶみ)」という表現が一般的になった。踏み絵は行為を指す言葉ではなく、絵踏をするときに使うキリストやマリア、十字架などが描かれたものを指すからだ。従来は踏み絵も絵踏も、混同して使われることが多かったという。

 身分の序列を示す「士農工商」も、当時の実態を表すものではないとしてあまり使われなくなった。士(武士)を除く、農、工、商の身分に上下関係はなく、その境目はあいまいだったという。

 「鎖国」という用語も慎重に使われるようになった。江戸幕府は国を閉ざしていたわけでなく、長崎を窓口としてオランダや中国と交易していた。対外的な窓口は長崎以外にも対馬や薩摩などがあり、東アジアの国とも限定的ながら、つながりを保っていた。そこで「鎖国」とカギカッコ付きで表したり、「いわゆる鎖国の状態」などとしたりするようになっている。

 山本さんは、鎖国は研究者の議論によって教科書の表現が変遷するケースだと指摘する。

 「江戸時代も海外と交流があったことは以前からわかっていました。幕府自身も鎖国と言っていましたし、明治にかけて開国するときに大騒ぎしたことを鎖国という言葉を使わなければ説明できない部分もあります。幕府が鎖国した目的を含め、学界での議論や見方は変わってきています。それに応じて、鎖国という言葉を使うことに慎重になったり、やはり元通り使うようになったりしています」

 薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と、会津や桑名藩を中心とする旧幕府軍による戦いは、「戊辰(ぼしん)の役」と呼ばれたこともあったが、いまは「戊辰戦争」と呼ばれている。

 「役」も「戦争」も、同じ戦いを意味する言葉だが、戊辰戦争ではアームストロング砲などの近代的な兵器が使われ、武士だけでなく農民らも兵士として参加するなど、より近代的な戦いだった。そこで、戦争という言葉を使うようになったという。

 また役には、官軍(朝廷)の立場から「賊軍に対する戦い」というニュアンスもある。より客観的な視点からとらえるため、役という言葉が使われなくなったとの指摘もある。かつての「西南の役」も「西南戦争」と言うようになった。

 ここまでみてきたように、歴史的な事実や人物の評価は、時代と共に移り変わる。山本さんはこう言う。

 「同じ歴史でもいろいろな見方があります。教科書は絶えず変わっていくものなのです」

 教科書は絶対ではない。世界史でも、「セポイの反乱」(1857〜59年)を、セポイ(インド人軍人)だけでなく幅広い階層を巻き込んだものだったとして、「インド大反乱」と呼ぶようになっている。地理でも世界一長い川はナイル川とされてきたが、アマゾン川という説もある。

 昔の記憶が通用しないのは残念だが、新しい知識を学べるチャンスでもある。教科書を思い返しながら、また勉強してみよう。
| 福祉・医療と教育 | 08:43 | comments(0) | trackbacks(0) |









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