2018.10.13 Saturday
終末期医療を巡る問題点
私は、20数年前に亡くなった父が肝臓癌で入院した際に担当医から「お茶をにごす程度」の治療しか出来ないと言われ、それ以来、医者の人間性を信頼できないでいます。
平成27年6月、厚生労働省は『保健医療2035提言書』を出し、2035年までに必要な保健医療のパラダイムシフトのひとつとして、『キュア中心からケア中心へ』を挙げています。
そこには、『疾病の治療と生命維持を主目的とする「キュア中心」の時代から、慢性疾患や一定の支障を抱えても生活の質を維持・向上させ、身体的のみならず精神的・社会的な意味も含めた健康を保つことを目指す「ケア中心」の時代への転換』を図ることが掲げられているのです。
真にそう転換する事を願ってやみません。
◎終末期におけるがん緩和医療のあり方を考える −標準化と多様化の狭間で−
終末期医療を巡る問題点
−患者ケアの視点から−
兵庫県立大学 日本学術会議連携会員 内布敦子
本人の意志を確認できず無駄な延命処置を施行したり、いったん装着した人工呼吸器をはずすこともできないという状況があり、倫理的にも大きな問題を生んでいる。
死にゆく過程は極めて個別性の高い体験であり、法的な基準やガイドラインによる対処方法には限界がある。
厚生労働省をはじめとしていくつかの学会が終末期の意思決定についてガイドライン作りに取り組んでいるが、終末期の意思決定は枝分かれ図に書けるほど単純ではなく、一つ一つの決定に様々な要素が絡み、複雑な問題を生み出している。
例えば意思決定が比較的明確であっても、フルコード、ファームコード、ノーコードを判断、実行するのは難しい。
医学的治療の見込みがあるにもかかわらず心肺停止時にはノーコードを選択することもありうるし、医学的治療の可能性がなく耐え難い苦痛にさいなまれていても、フルコードを選択することもありうる。
いずれのガイドラインも患者本人による自己決定が前提になっているが、わが国の医療現場で実際に本人の意思を丁寧に確認し公に通用するように書面に起こしている施設は皆無である。
患者の意思をどのように確認するか、その技術もないままガイドラインだけが作られる状況には違和感がある。
さて、死を話題にすることは多くの場合はばかられる。他者の死を話題することはできても、本人を前にその人の死を話題にすることは大変難しく、多くの医療従事者はそのことを避けている。
一方、死はずけずけと話題にされるべきではないので、医療従事者が死や延命処置の話を避けてしまうのは極めて自然なことでもある。
死の文脈に巻き込まれることは尋常なことではない。看護職は患者との間で、もっとも長く時間と場を共有する専門職であるので、死にゆく過程にたびたび巻き込まれる。
専門家としての「巻き込まれ」はむしろ必要なことであり、巻き込まれることなしには患者の真意にたどり着くことはできない。
「専門的巻き込まれ」の技術は看護職だけでなく医師職にも必要である。
患者の意思を丁寧に確認するには巻き込まれだけでなく、ケアの力が必要である。人は死に直面する状況にあって、ケアなしで意思決定などできない。
この場合ケアとはそばにいてその状況に巻き込まれ右往左往することに甘んじながら、逃げずに待つことに他ならない。それをしなければ死にゆく人自身の意思を引き出すことなどできないのではないか。
ガイドラインを作る前に患者と共に患者、ひいては自分の死に直面する技術を学ぶ必要がある。
患者ときちんと話せないのにガイドラインだけを作っても、現場は動かないどころか、現場にとってそのようなガイドラインはお荷物になるにすぎない。
平成27年6月、厚生労働省は『保健医療2035提言書』を出し、2035年までに必要な保健医療のパラダイムシフトのひとつとして、『キュア中心からケア中心へ』を挙げています。
そこには、『疾病の治療と生命維持を主目的とする「キュア中心」の時代から、慢性疾患や一定の支障を抱えても生活の質を維持・向上させ、身体的のみならず精神的・社会的な意味も含めた健康を保つことを目指す「ケア中心」の時代への転換』を図ることが掲げられているのです。
真にそう転換する事を願ってやみません。
◎終末期におけるがん緩和医療のあり方を考える −標準化と多様化の狭間で−
終末期医療を巡る問題点
−患者ケアの視点から−
兵庫県立大学 日本学術会議連携会員 内布敦子
本人の意志を確認できず無駄な延命処置を施行したり、いったん装着した人工呼吸器をはずすこともできないという状況があり、倫理的にも大きな問題を生んでいる。
死にゆく過程は極めて個別性の高い体験であり、法的な基準やガイドラインによる対処方法には限界がある。
厚生労働省をはじめとしていくつかの学会が終末期の意思決定についてガイドライン作りに取り組んでいるが、終末期の意思決定は枝分かれ図に書けるほど単純ではなく、一つ一つの決定に様々な要素が絡み、複雑な問題を生み出している。
例えば意思決定が比較的明確であっても、フルコード、ファームコード、ノーコードを判断、実行するのは難しい。
医学的治療の見込みがあるにもかかわらず心肺停止時にはノーコードを選択することもありうるし、医学的治療の可能性がなく耐え難い苦痛にさいなまれていても、フルコードを選択することもありうる。
いずれのガイドラインも患者本人による自己決定が前提になっているが、わが国の医療現場で実際に本人の意思を丁寧に確認し公に通用するように書面に起こしている施設は皆無である。
患者の意思をどのように確認するか、その技術もないままガイドラインだけが作られる状況には違和感がある。
さて、死を話題にすることは多くの場合はばかられる。他者の死を話題することはできても、本人を前にその人の死を話題にすることは大変難しく、多くの医療従事者はそのことを避けている。
一方、死はずけずけと話題にされるべきではないので、医療従事者が死や延命処置の話を避けてしまうのは極めて自然なことでもある。
死の文脈に巻き込まれることは尋常なことではない。看護職は患者との間で、もっとも長く時間と場を共有する専門職であるので、死にゆく過程にたびたび巻き込まれる。
専門家としての「巻き込まれ」はむしろ必要なことであり、巻き込まれることなしには患者の真意にたどり着くことはできない。
「専門的巻き込まれ」の技術は看護職だけでなく医師職にも必要である。
患者の意思を丁寧に確認するには巻き込まれだけでなく、ケアの力が必要である。人は死に直面する状況にあって、ケアなしで意思決定などできない。
この場合ケアとはそばにいてその状況に巻き込まれ右往左往することに甘んじながら、逃げずに待つことに他ならない。それをしなければ死にゆく人自身の意思を引き出すことなどできないのではないか。
ガイドラインを作る前に患者と共に患者、ひいては自分の死に直面する技術を学ぶ必要がある。
患者ときちんと話せないのにガイドラインだけを作っても、現場は動かないどころか、現場にとってそのようなガイドラインはお荷物になるにすぎない。
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