2018.08.06 Monday
2018年、73回目の「原爆の日」
広島は6日、73回目の「原爆の日」を迎えまし。広島市中区の平和記念公園では午前8時から平和記念式典が開かれ、被爆者や遺族、安倍晋三首相らと各国代表が参列しました。
原爆が投下された午前8時15分に全員で黙とうをささげました。私もNHKテレビの画面向かって1分間手を合わせました。
◎平和記念式典 広島市長「核兵器ない世界実現へ政府は役割を」
広島に原爆が投下されてから6日で73年になります。広島市の松井一実市長は平和記念式典で政府に対し、「国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、役割を果たすことを求める」と訴えました。
広島市の平和公園で行われた式典には、85か国の代表を含むおよそ5万人が参列し、5393人が新たに加えられた31万4118人の原爆死没者名簿が慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に全員で黙とうをささげました。
核保有国を中心とした国々と非核保有国との対立が続き、アメリカとロシアが核戦力の強化を打ち出すなど、核兵器廃絶への道筋はいまも見いだすことができていません。
「平和宣言」で、広島市の松井一実市長は、「世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められている」としたうえで、政府に対し、「国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、役割を果たすことを求める」と訴えました。
これに対し、安倍総理大臣は、「核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」としたうえで、「核兵器のない世界を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要で、わが国は非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べました。
原爆投下から73年となる広島では、きょう1日、犠牲者の追悼と、核兵器のない世界の実現に向けた発進が続きます。
◎【詳報】8時15分、広がる祈り 復旧と鎮魂思い重ねて
(2018年08月06日8 朝日新聞デジタル)
広島は6日、被爆73年となる「原爆の日」を迎えました。今年の夏は西日本豪雨災害の被災1カ月とも重なり、復旧と鎮魂という「特別な一日」となった各地の動きをタイムラインで追います。
■安倍首相、核禁止条約には今年も触れず(8:32)
広島市で開かれた平和記念式典に参列した安倍晋三首相。「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくことは、我が国の使命だ」とあいさつした。約5分にわたり、手元の原稿に目を落として読み上げた。
首相は、「近年、核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」とし、核兵器のない世界の実現には「被爆の悲惨な実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要」と強調。「非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意」と述べた。
一方で、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約については、今年も触れなかった。
あいさつが始まる際、「戦争する国の総理のあいさつは聞きとうないから、帰る」と言って、会場を立ち去る男性もいた。あいさつ中は会場の外から、安倍首相の参列に反対するものとみられるシュプレヒコールが響き続けた。
■被爆電車「歴史の生き証人」
原爆投下で被爆しながら今も運行している広島電鉄の「被爆電車」が、原爆ドーム最寄りの停留場に到着した。夏の日差しが降り注ぐなか、停留場で降りた人たちが平和記念公園に次々と向かった。
路面電車に乗って平和記念公園に訪れた広島市南区の佐伯和邦さん(73)は、生後2カ月で被爆。毎年欠かさず、この地を訪れているという。「被爆電車は歴史の生き証人。当時を知る電車が走る姿を見て、この日を忘れないでほしい」と話した。
1945年8月6日の原爆投下で、市内線123両のうち108両が被爆した。その3日後に一部区間で運行が再開され、復興のシンボルにもなった。現在も3両の被爆電車が残され、うち「651号」「652号」の2両は現役で走っている。
■投下後降りだした「黒い雨」(9:00ごろ)
原爆投下からしばらくして、広島では黒く濁った大粒の雨が降りだした。いわゆる「黒い雨」だ。核爆発で生じた放射性物質や焼けた物のすすなどが上空に達し、雨雲が発生。広島市北西部を中心に、夕方まで降雨が記録されている。
「黒い雨」は作家の故・井伏鱒二の小説になり、後に映画化された。原爆の悲惨さとたくましく生きる人々の姿を描いた漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんによる初の原爆漫画「黒い雨にうたれて」のタイトルにもなった。
「黒い雨」について、国は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で降り、うち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。1976年、公費で健康診断が受けられる援護対象地域に指定した。がんなどになると被爆者健康手帳が交付される。
一方で、地域から外れた小雨地域やその周辺に住む人からも「『黒い雨』を浴び、健康被害に悩まされている」といった証言が相次いだ。広島市などが地域拡大を求め、厚生労働省は検討会を設けて協議したが、2012年7月に「拡大は困難」と認めなかった。援護区域の拡大や被害救済を求める人たちの「黒い雨」訴訟は、いまも広島地裁で続いている。
■甲子園出場の広陵も黙とう
平和だからこそ野球ができる。第100回全国高校野球選手権記念大会に広島代表で出場している広陵の選手らが、大阪府池田市の宿舎前で整列し、広島の方角を向いて黙禱(もくとう)をした。
■広島市長が平和宣言読み上げ(8:16)
広島市の松井一実市長は、平和宣言を読み上げた。「人類は歴史を忘れ、直視することを止(や)めた時、再び重大な過ちを犯してしまう」と訴えた。
■原爆投下時刻、参列者が黙とう(8:15)
73年前のこの時間、広島市上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。人類史上初めて、市民の頭上に投下されたのだ。
広島市によると、原爆による死没者は今年8月5日現在で計31万4118人。平和記念式典では、名簿の収められた原爆死没者慰霊碑の前で参列者が黙とうを捧げた。
■平和記念式典始まる(8:00)
原爆投下から73年の8月6日。平和記念式典が始まった。
■観測機、広島上空に飛来(7:09)
73年前のきょう8月6日午前7時9分。1機の気象観測機が広島上空に飛来した。太平洋戦争の激戦地、サイパン島の隣島テニアンの基地からアメリカのB29爆撃機がその後を追っていた。機長の母の名で呼ばれた「エノラ・ゲイ」。機内には重さ4トン、全長3メートルの原子爆弾「リトルボーイ」が積まれていた。
広島原爆はウラン235という核分裂物質が使われ、爆発時のエネルギーは火薬の爆弾1万5千トン分に匹敵する。長崎で8月9日に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」とは形も中身も違い、アメリカは2種類の原爆を試したかったともいわれている。
広島には5日夜から6日朝にかけて警戒・空襲警報が出されていた。午前7時31分に観測機が去ると、解除され、安心した市民はいつもの生活に戻っていた。
6日午前8時の広島市の気温は26.7度。観測機は「天気も良好で爆撃可能」とエノラ・ゲイに伝えた。周りの都市のように空襲を受けてこなかった街は、無警戒に近かった。
■平成最後の8月6日を迎えて
昇る陽(ひ)がまぶしさを増し、乱反射した白い光が広島の街を包む。73年前のきょうも、空は晴れ渡っていた。道行く人たちは、半袖から突き出た腕をじりじりと太陽に焼かれながら、職場や学校へと向かっていただろう。
午前8時15分。閃光(せんこう)が走り、熱線と爆風が、街を壊滅させた。たった一発の原子爆弾が、多くの無辜(むこ)の命を奪った。
被爆地となった広島は73年後の今年夏、未曽有の豪雨災害の被災地になった。山裾の家々は土砂に押し流され、県内だけで死者は100人を超えた。平成最後の8月6日は、被災1カ月と重なった。
ただ、この街は幾度も困難から立ち上がってきた。
過去と現在。時を超えて人々を結ぶのは、あの日の記憶と平和への思い。一つの時間軸にさまざまな事象を刻みながら、広島の特別な一日をたどる。
原爆が投下された午前8時15分に全員で黙とうをささげました。私もNHKテレビの画面向かって1分間手を合わせました。
◎平和記念式典 広島市長「核兵器ない世界実現へ政府は役割を」
広島に原爆が投下されてから6日で73年になります。広島市の松井一実市長は平和記念式典で政府に対し、「国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、役割を果たすことを求める」と訴えました。
広島市の平和公園で行われた式典には、85か国の代表を含むおよそ5万人が参列し、5393人が新たに加えられた31万4118人の原爆死没者名簿が慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に全員で黙とうをささげました。
核保有国を中心とした国々と非核保有国との対立が続き、アメリカとロシアが核戦力の強化を打ち出すなど、核兵器廃絶への道筋はいまも見いだすことができていません。
「平和宣言」で、広島市の松井一実市長は、「世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められている」としたうえで、政府に対し、「国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、役割を果たすことを求める」と訴えました。
これに対し、安倍総理大臣は、「核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」としたうえで、「核兵器のない世界を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要で、わが国は非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べました。
原爆投下から73年となる広島では、きょう1日、犠牲者の追悼と、核兵器のない世界の実現に向けた発進が続きます。
◎【詳報】8時15分、広がる祈り 復旧と鎮魂思い重ねて
(2018年08月06日8 朝日新聞デジタル)
広島は6日、被爆73年となる「原爆の日」を迎えました。今年の夏は西日本豪雨災害の被災1カ月とも重なり、復旧と鎮魂という「特別な一日」となった各地の動きをタイムラインで追います。
■安倍首相、核禁止条約には今年も触れず(8:32)
広島市で開かれた平和記念式典に参列した安倍晋三首相。「唯一の戦争被爆国として、『核兵器のない世界』の実現に向けて、粘り強く努力を重ねていくことは、我が国の使命だ」とあいさつした。約5分にわたり、手元の原稿に目を落として読み上げた。
首相は、「近年、核軍縮の進め方について各国の考え方の違いが顕在化している」とし、核兵器のない世界の実現には「被爆の悲惨な実相の正確な理解を出発点として、核兵器国と非核兵器国双方の協力を得ることが必要」と強調。「非核三原則を堅持しつつ、粘り強く双方の橋渡しに努め、国際社会の取り組みを主導していく決意」と述べた。
一方で、昨年7月に国連で採択された核兵器禁止条約については、今年も触れなかった。
あいさつが始まる際、「戦争する国の総理のあいさつは聞きとうないから、帰る」と言って、会場を立ち去る男性もいた。あいさつ中は会場の外から、安倍首相の参列に反対するものとみられるシュプレヒコールが響き続けた。
■被爆電車「歴史の生き証人」
原爆投下で被爆しながら今も運行している広島電鉄の「被爆電車」が、原爆ドーム最寄りの停留場に到着した。夏の日差しが降り注ぐなか、停留場で降りた人たちが平和記念公園に次々と向かった。
路面電車に乗って平和記念公園に訪れた広島市南区の佐伯和邦さん(73)は、生後2カ月で被爆。毎年欠かさず、この地を訪れているという。「被爆電車は歴史の生き証人。当時を知る電車が走る姿を見て、この日を忘れないでほしい」と話した。
1945年8月6日の原爆投下で、市内線123両のうち108両が被爆した。その3日後に一部区間で運行が再開され、復興のシンボルにもなった。現在も3両の被爆電車が残され、うち「651号」「652号」の2両は現役で走っている。
■投下後降りだした「黒い雨」(9:00ごろ)
原爆投下からしばらくして、広島では黒く濁った大粒の雨が降りだした。いわゆる「黒い雨」だ。核爆発で生じた放射性物質や焼けた物のすすなどが上空に達し、雨雲が発生。広島市北西部を中心に、夕方まで降雨が記録されている。
「黒い雨」は作家の故・井伏鱒二の小説になり、後に映画化された。原爆の悲惨さとたくましく生きる人々の姿を描いた漫画「はだしのゲン」作者の故・中沢啓治さんによる初の原爆漫画「黒い雨にうたれて」のタイトルにもなった。
「黒い雨」について、国は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で降り、うち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。1976年、公費で健康診断が受けられる援護対象地域に指定した。がんなどになると被爆者健康手帳が交付される。
一方で、地域から外れた小雨地域やその周辺に住む人からも「『黒い雨』を浴び、健康被害に悩まされている」といった証言が相次いだ。広島市などが地域拡大を求め、厚生労働省は検討会を設けて協議したが、2012年7月に「拡大は困難」と認めなかった。援護区域の拡大や被害救済を求める人たちの「黒い雨」訴訟は、いまも広島地裁で続いている。
■甲子園出場の広陵も黙とう
平和だからこそ野球ができる。第100回全国高校野球選手権記念大会に広島代表で出場している広陵の選手らが、大阪府池田市の宿舎前で整列し、広島の方角を向いて黙禱(もくとう)をした。
■広島市長が平和宣言読み上げ(8:16)
広島市の松井一実市長は、平和宣言を読み上げた。「人類は歴史を忘れ、直視することを止(や)めた時、再び重大な過ちを犯してしまう」と訴えた。
■原爆投下時刻、参列者が黙とう(8:15)
73年前のこの時間、広島市上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。人類史上初めて、市民の頭上に投下されたのだ。
広島市によると、原爆による死没者は今年8月5日現在で計31万4118人。平和記念式典では、名簿の収められた原爆死没者慰霊碑の前で参列者が黙とうを捧げた。
■平和記念式典始まる(8:00)
原爆投下から73年の8月6日。平和記念式典が始まった。
■観測機、広島上空に飛来(7:09)
73年前のきょう8月6日午前7時9分。1機の気象観測機が広島上空に飛来した。太平洋戦争の激戦地、サイパン島の隣島テニアンの基地からアメリカのB29爆撃機がその後を追っていた。機長の母の名で呼ばれた「エノラ・ゲイ」。機内には重さ4トン、全長3メートルの原子爆弾「リトルボーイ」が積まれていた。
広島原爆はウラン235という核分裂物質が使われ、爆発時のエネルギーは火薬の爆弾1万5千トン分に匹敵する。長崎で8月9日に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」とは形も中身も違い、アメリカは2種類の原爆を試したかったともいわれている。
広島には5日夜から6日朝にかけて警戒・空襲警報が出されていた。午前7時31分に観測機が去ると、解除され、安心した市民はいつもの生活に戻っていた。
6日午前8時の広島市の気温は26.7度。観測機は「天気も良好で爆撃可能」とエノラ・ゲイに伝えた。周りの都市のように空襲を受けてこなかった街は、無警戒に近かった。
■平成最後の8月6日を迎えて
昇る陽(ひ)がまぶしさを増し、乱反射した白い光が広島の街を包む。73年前のきょうも、空は晴れ渡っていた。道行く人たちは、半袖から突き出た腕をじりじりと太陽に焼かれながら、職場や学校へと向かっていただろう。
午前8時15分。閃光(せんこう)が走り、熱線と爆風が、街を壊滅させた。たった一発の原子爆弾が、多くの無辜(むこ)の命を奪った。
被爆地となった広島は73年後の今年夏、未曽有の豪雨災害の被災地になった。山裾の家々は土砂に押し流され、県内だけで死者は100人を超えた。平成最後の8月6日は、被災1カ月と重なった。
ただ、この街は幾度も困難から立ち上がってきた。
過去と現在。時を超えて人々を結ぶのは、あの日の記憶と平和への思い。一つの時間軸にさまざまな事象を刻みながら、広島の特別な一日をたどる。
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