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50歳を過ぎたら葬儀には行かないほうがいい
 先月、大学の友人とクラブの先輩が亡くなりました。

 友人はゼミが同じでよく飲みに行ったり同じ時間を共有し、結婚式にも招待され友人代表でスピーチもさせてもらいました。告別式に参列して火葬場で見送らせていただきました。

 今でも時々彼の顔を思い出す時が有ります。約1年半に亘る闘病生活で快方に向かっているとばかり思っていたので、お見舞いは初期に1回行ったきりでした。

 その時もかなり痩せていましたが、告別式でお別れする際にはもっと小さくなっていました。何回もお見舞いに行けばいいとは思いませんが、もっと行っとけば良かったと後悔をしております。

 クラブの先輩は、葬儀の後のお別れ会に出席しました。そのクラブは私が1年生の時の4年生がクラブ立ち上げ、お別れ会には私たちの学年まで声を掛けて頂いております。この形式は負担も少なく理にかなっていると感じてます。

◎50歳を過ぎたら葬儀には行かないほうがいい 心のなかで故人と語り合うだけで十分だ
 (6月5日 東洋経済オンライン 江口 克彦)

 松下幸之助氏(パナソニック創業者)のもとで23年側近として過ごした江口克彦氏。若手ビジネスパーソン向けの連載として好評だった上司と部下の「常識・非常識」に続いて、「50歳からの同調圧力に負けない人生の送り方」について書き下ろしてもらう。第2回は「葬儀にノコノコ出掛けてはならない」。

 およそ葬儀というものにはノコノコ出掛けるものではない。故人、家族、親族と日頃から親密な付き合いもないのに、義務感だけで出掛ける。愚かとしか言いようがない。

 70歳も過ぎると、葬儀の案内、連絡がたびたびくるようになる。よほどの葬儀には出ることになろうが、そうでない葬儀が多すぎる。たいていの人が、葬儀という場には似つかわしくない“信じられない場面”に出くわすのではないか。

 本来、葬儀とは、亡くなった人の冥福を祈り、また、生前の交誼に感謝しつつ、故人の徳をしのぶためのものだ。心は沈み、重くなるのも当然。

 私自身もつい先日、ある親しい友人の葬儀に、寂しさを感じつつ静かに参列した。すると関係者の一人が声をかけてきたので、こちらはお悔やみの気持ちを言うと、相手は普段と変わらない、笑顔、大声で話をし、「どうぞ、こちらにおいでください」などと言う。

◇葬儀は社交場?宴会場?
 彼だけではない。参列者の多くは、顔見知りを見つけては、おしゃべり。片隅の喫煙所では、紫煙を燻(くゆ)らせながら、男も女もこの場と関係ない話に花を咲かせている。誰も彼も、悲しげには見えない。あえて意地の悪い言い方をすれば、まるで知人が亡くなったのを喜んでいるような感じ。会葬を終えた後はまして、祭りのようなにぎわいである。

 このようなことは一度や二度ではない。むしろ、たいていの場合がそうだ。葬儀は一つの社交場なのか。宴会場なのか。ゴルフの約束をしている人たちもいる。仕事の話をしている人もいる。

 いったい、なんのために葬儀に来たのかと疑いの心さえ芽生えてくる。偲ぶ気持ちもないならば、声をかけられたからといってノコノコ来るな、ということである。

 葬儀そのものについても、一言申し上げておきたい。むやみに大規模に、知り合いに一斉に声をかけるような葬儀は、時代に取り残されておりませんか、ということだ。だいたい、冠婚葬祭のなかで、葬儀ほど厄介なことはない。

 当たり前だが、葬儀はたいてい、突然やってくる。家族も親族も大変。悲しみのなかで準備しなければならない。そのうえ、故人をしのぶ間もなく、見も知らない人たちを迎え、戸惑うばかりだろう。

◇口ではいえないが、呼ばれたほうも迷惑
 それだけではない。微妙な関係の相手なら葬儀に呼ばれたほうも、口にはできないが、結構、迷惑。大事な予定をキャンセルしなければならないこともある。出張先からなら、喪服の手配もしなければならないし、香典が必要なのか不要なのかも確認しなければならない。かなり手間がかかる。

 呼ばれたのだからと参列すれば、「いや、遠いところ、参列していただかなくてもよろしかったのに。わざわざ、申し訳ありません。ただ、亡くなったお知らせだけのつもりで」などと言う。

 それなら、連絡自体、後日でもいいのではないか、と思う。

 そもそも葬儀には、笑顔の人、見知らぬ人はいらない。それよりも近親者だけで行うべきだ。しめやかに、しみじみと、故人を思い偲んだほうがいい。

 そのように日頃思っていたら、最近は相当有名な方でも、家族、親族だけの家族葬をするようになったと、ある葬儀社の人から聞いた。誰でも同じようなことを考えているようである。それで、葬儀場も大きなホールのようなところは不要ということで、「今、ウチは、ほとんどの部屋を数人で家族葬ができる個室にしています」とのこと。

 最近は、形式的な社葬や大掛かりな葬儀は、もう時代遅れと考える人も増えてきたということ。大いに結構。今後は会社の誇示や遺族の虚栄心のための葬儀はなくなるだろう。それが葬儀の本来であろう。

 もう一つ、50歳を過ぎ、60歳、70歳、とりわけ80歳過ぎになったら、葬儀の参列は遠慮したほうがいい。たいてい葬儀は冬か夏の厳しい季節だ。他人の葬儀に行って風邪をこじらせ、あるいは熱中症を患い、ひょっとすると、数カ月後に自分の葬儀を出さなければならないハメになるかもしれないからだ。

 また、葬儀に真面目に参列したらしたで、遺影を見ながら、あるいは棺のなかに横たわる故人の顔をのぞき見ながら、いつ自分の番が来るかと思えば、気がめいってくる。

 道徳的な物言いとしては「案内をもらった葬儀にはなるべく参列するべきだ」、「葬儀にはなるべく出ないほうがいい、という主張は不謹慎だ」というものになるのだろう。その同調圧力に負けて、つらい思いをしている人も多いのではないだろうか。

 だからこそ、あえて、断言したい。「50歳を過ぎたら、葬儀にはなるべく出席しないほうがいい」。

◇心のなかで故人と語り合うだけで十分
 故人をしのぶのなら葬儀に参列せずとも、自宅で心静かに、しみじみと時間をかけて故人を思い起こし、心のなかで故人と語り合い、合掌するだけで十分なのではないかと思う。そのように思い起こし、語り合うことが、故人を「蘇生」させることにもなろう。加えて、自分自身の、いよいよ生きる活力も湧いてくるというものだ。

 いずれにしても、自分自身の葬儀は可能なかぎり、小規模でしみじみと静かに行うよう、家族には申し伝えておきたい。また、なにより、他人の葬儀にもノコノコ行かないほうが、相手のためにも自分のためにもなる、ということである。
| 雑感 | 15:21 | comments(0) | trackbacks(0) |









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