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職場に50歳以上の人が必要な理由
◎職場に50歳以上の従業員が必要な10の理由
 (2019/08/13 06:30 Forbes JAPAN Kerry Hannon)

 賢い企業は従業員を採用する際、候補者の年齢が重大な問題ではないことを知っている。簡単に言えば、年齢の高い候補者が持つ経験は、彼らに優位性を与えているということになる。

 50歳以上の労働者が持つ以下の10の特徴が、企業が彼らを雇用すべき理由だ。

1. 忠誠心と信頼性
 年齢の高い従業員を雇用し続けることは、企業にとっての利益になる。

 企業は新たに採用する従業員の選考から研修までに、途方もない時間と資金を投資している。

 それにもかかわらず、彼らの多くはあっという間に、輝かしい、より高給のポジションのために転職していく。

2. 意思決定能力
 より高い年齢の労働者が持つ明らかな長所は、仕事上の経験とスキルだ。

 彼らが仕事を通じて磨いてきたスキルには、他者からの支援を必要としたり、いろいろと思い悩んだりすることなく、タイムリーに確かな意思決定を下すために必要な批判的思考力が含まれる。

3. 魅力
 年齢の高い労働者には、仕事に対する態勢が整っており、自信もある人が多い。

 最高の従業員は、自信と専門知識をどちらも持ち合わせている人だ。この2つは年齢を重ねるとともに生まれる風格とともに、輝きを増すものだ。

4. 知的能力
 優れた従業員は、マネジメント・スキル、リーダーシップ・スキル、コミュニケーション・スキル、共感力を併せ持っている。これらもまた、年齢と共に高まる能力だ。

 素晴らしいアイデアが浮かんだとき、年齢の高い従業員はそれをどのように扱うべきか考えることに長けている。過去の成功と失敗と比較し、そのアイデアを大成功につなげる際のハードルの高さを判断することができるからだ。

5. 仕事に対する姿勢
 高年齢の労働者は、先を見通すことができ、前向きで、高い問題解決能力がある。

 一般論かもしれないが、一定の年齢を過ぎれば、子供が巣立ち、住宅ローンも払い終えるなど、人生における大きな課題を成し遂げている。

 そうした年齢の人たちは、仕事にエネルギーを集中させることができる。仕事に対し、若いころとは違った愛情を注ぐことができる。

6. 協力的
 経験豊富な労働者は、他者に手を差し伸べることの見返りを熟知している。彼らはチームワークを大切にする。

 実際のところ、50歳以上の労働者の多くにとって、「プレイヤー」になることは若いころより簡単なことだ。

 人生において自尊心が重大だった時期はすでに過ぎ、さまざまな人たちと働くことは彼らにとって、エネルギーを与えてくれることに変わっている。

7. リーダーシップ・スキル
 数十年にわたって働いてきた人たちは、多くが優れたリーダーたちだ。それは主に、身に付けたコミュニケーション・スキルのためだ。

 彼らの職業人生において、コミュニケーションはメールやソーシャルメディアに支配されたものではなかった。

 そのため、現在の若い労働者にとっては問題になることも多いコミュニケーション・スキルや社交術を、仕事を通じて磨いてきている。

8. 基本的スキルとネットワーク
 年齢の高い労働者は、管理、マーケティング、財務に関する経験と、業界に関するより豊富で深い知識を持っている。

 ボストン大学の研究機関が実施した調査によると、雇用主の46.3%が、「高年齢の従業員はより強固な仕事上のネットワークを築いている」と答えている。若い従業員について、同様に回答した雇用主は30%だった。

9. 生産性
 年齢の多様性は組織のパフォーマンスを向上させる。

 調査によると、年齢の異なる従業員からなるチームを組織している企業の方が、どの年齢の従業員の生産性も高いことが分かっている。

10. 指導者
 高年齢の従業員たちは、若年の従業員がスキルを身に付ける上で重要な役割を果たしている。

 一方で、年上の世代が年下の従業員たちから学ぶことも多い。異なる世代が互いから学ぶことで、誰もが働きたいと思うような職場になっていくだろう。
| 雑感 | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和天皇 拝謁記「国民が退位希望するなら躊躇せぬ」

 昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」から、敗戦後の退位をめぐる問題が決着したとされる東京裁判の後にも、昭和天皇が「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と語るなど、退位の可能性にたびたび言及していたことがわかりました。

 分析にあたった専門家は、「本当に皇室が国民に認められるかどうかがすごく気になっていて、存続には国民の意思が決定的に重要だという認識がみえる」と指摘しています。

 「拝謁記」を記していたのは民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。

 昭和天皇の退位をめぐる問題は、これまでの研究で、昭和23年11月の東京裁判の判決に際し、昭和天皇が連合国軍最高司令官のマッカーサーに手紙を送り、退位せず天皇の位にとどまる意向を伝えたことで、決着したとされてきました。

 しかし、「拝謁記」には、判決から1年が過ぎた昭和24年12月に、昭和天皇が田島長官に、「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ又退位等ノ論が出テイロイロノ情勢ガ許セバ退位トカ譲位トカイフコトモ考ヘラルヽ」と退位の可能性に言及し、そのためには当時皇太子だった上皇さまを早く外遊させてはどうかと述べたと記されていました。

 また、サンフランシスコ平和条約の調印が翌月に迫った昭和26年8月には「責任を色々とりやうがあるが地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易である」と、退位したほうがむしろ楽だと語ったと記されています。

 さらに、その4か月後の拝謁でも「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬ」と述べたと記されています。

◇日大 古川教授「退位が偽らざる本心と思う」
 「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「これだけ大きなことを起こした責任者だったら辞めて責任を取るのがいちばん普通なので、常識的に考えれば退位したほうがいいのだろうと昭和天皇もわかっていたはずだし、辞めたほうが気が楽になるというのが昭和天皇の偽らざる本心だと思う」と述べました。

 そのうえで、「本来なら退位して当然の立場で、留位するということが本当に皇室が国民に認められていくことにプラスになるかどうかがすごく気になっていた。存続させていくために、国民の意思が決定的に重要だという認識があるからこそ、世評を気にしていることが拝謁記にしょっちゅう出てくるのだろう」と指摘しました。

◇一橋大 吉田特任教授「道義的責任をはっきり意識」
 日本の近現代政治史が専門の一橋大学の吉田裕特任教授は、「昭和23年末の段階で退位問題には決着がつけられたと思っていたので、その後もくすぶっていて、昭和24年の段階でもまだ退位のことを言っているというのは全く予想しなかった」と述べました。

 そのうえで、「退位問題の裏には君主としての責任感があるが、それは国民に対する責任と歴代の天皇や天皇家の祖先に対する責任の2つがある。敗戦という事態を迎え、それまで続いてきた国体を危機に陥れてしまったことに対する道義的な責任をはっきり意識していることが、拝謁記の記述からわかった」と話しました。

 さらに、「天皇制廃止の立場からではなく、天皇制や国体の護持を望む立場からの退位論が周囲にかなりあり、それを意識せざるをえない状況がずっと続いていたことがわかるし、昭和天皇が退位論に関するいろいろな議論に細かく目を通していたこともよくわかる」と述べました。
| 政策 | 16:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
「イージー・ライダー」ピーター・フォンダさん死去 米俳優

 自由に生きようとバイクで旅をする若者とその挫折を描いたアメリカ映画、「イージー・ライダー」で知られる俳優のピーター・フォンダさんが16日、ロサンゼルスの自宅で肺がんのため亡くなりました。79歳でした。

 ピーター・フォンダさんは1940年にニューヨークで、俳優のヘンリー・フォンダさんの息子として生まれました。

 姉のジェーン・フォンダさんと同じく俳優を志し、1963年に映画デビューを果たします。

 みずからも製作に関わり、1969年に公開された映画「イージー・ライダー」で、自由気ままに生きようとバイクで旅をする若者を演じて高い評価を受け、共演したデニス・ホッパーさんやジャック・ニコルソンさんとともに一躍、人気俳優となりました。

 その後、数々の映画の出演や製作に関わり、1997年に公開された「木洩れ日の中で」では、ゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞したほか、アカデミー賞にもノミネートされました。

 ことしは「イージー・ライダー」の公開からちょうど50年にあたるため、さまざまなイベントが企画されていましたが、アメリカの複数のメディアによりますと、闘病中だったフォンダさんは16日午前、カリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で、肺がんによる呼吸器不全のため亡くなったということです。
| 雑感 | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
17日も猛暑続く 関東甲信の内陸部は特に警戒を

 17日も東日本と西日本を中心に猛暑が続きます。

 関東甲信の内陸部では特に猛烈な暑さとなる見込みで、熱中症に警戒し十分な対策を取ってください。

 気象庁によりますと、17日も西日本や東日本の広い範囲で晴れて気温が上がる見込みで、日中の最高気温は、さいたま市で38度、甲府市で37度、東京の都心や京都市で36度、福井市や岡山市で35度などと予想され、特に関東の内陸部で猛烈な暑さとなる見込みです。

 熱中症に警戒し、こまめに水分を取るほか、屋外での激しい運動は避け、室内では冷房を使うなど十分な対策を取ってください。
| 環境とまちづくり | 08:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢者「上級と下級」の分水嶺とは
◎年金と介護 「上級高齢者」と「下級高齢者」の分水嶺とは
 (2019/08/13 16:00 マネーポストWEB)

 「老後資金2000万円不足問題」の本質は、老後が長すぎることにある。20歳から60歳まで40年間、サラリーマンの夫が年金保険料を納めただけで、夫婦が100歳まで、2人合わせて計80年間安心して生きていけるなどという話があるはずはない。

 新著『上級国民/下級国民』が話題の作家の橘玲氏によると、その答えは「老後を短くする」ことだ。「長く働く」ことで「年金の繰り下げ受給」が可能になる。「上級高齢者/下級高齢者」の分水嶺ともなるそのメリットについて、橘氏が解説する。

 * * *

 現行の制度では65歳より早く年金を受給すると1か月あたり0.5%ずつ年金受給額が減らされ、遅く受給する場合には0.7%ずつ増えていく。

 繰り上げはペナルティが科され、繰り下げには大きなプレミアムが上乗せされている。いまは70歳が繰り下げの上限だが、今後は75歳や80歳までできるようになるだろう。

 仮に80歳まで繰り下げるとすると、年金受給額はほぼ倍になる計算だ。65歳時点で月額20万円の年金が月額40万円になる。

 金融庁の報告書では、65歳で2000万円の金融資産と月額20万円の年金がないと安心した老後は過ごせないとされた。

 だが80歳の時点で月額40万円の年金があれば、たいした貯金がなくても老後に不安はないだろう。

 金融資産をもたない50代のサラリーマンが、10年間で2000万円を貯めるのは不可能だが、働くことは健康であれば誰にでもできる。「長く働いて年金を繰り下げる」が超高齢社会の最強の人生設計なのだ。

◇「子供夫婦まで巻き込む」のは避けたい
 80歳以降に「持ち家」から「賃貸」に移るのが富裕層の理想的な選択だとすると、下級高齢者がこれを選ぶことは不可能なのか――。

 適切な介護サービスのある有料老人ホームの月額利用料が約30万円だとしよう。年金が月額20万円なら、足りない10万円を貯金から取り崩すしかない。

 貯蓄がなければ子どもの世話になるしかなく、子どもの家計に余裕がなければ親子そろって最貧困に転落してしまう。そんな罠にはまらないためにも、「長く働く、いっしょに働く」ことを夫婦でじっくり相談してみたらどうだろう。

 乏しい金融資産を運用するより、ほとんどのひとにとっては働くことが最大の「資産運用」だ。上級高齢者にはなれないかもしれないが、すくなくとも下級高齢者からは脱することができるはずだ。

◆橘玲(たちばな・あきら)
 1959年生まれ。作家。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎文庫)、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)などベストセラー多数。新刊『上級国民/下級国民』(小学館新書)が話題。

※週刊ポスト2019年8月16・23日号
| 雑感 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨

 天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。

 NHKは、初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。

 その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。

 分析にあたった専門家は、「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

◇繰り返し語る後悔の言葉
 「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

 田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

 その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

◇強くこだわった「反省」
 さらに、昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

 「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

◇削除された戦争への悔恨
 当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

 田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

 昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

 吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。

 このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

◇専門家「現代生きる者にも重い記録」
 「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

 そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

 さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

 また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

 そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。
| 政策 | 19:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
猛烈な暑さ 週末も続く 熱中症に警戒を
 台風から流れ込む暖かい空気の影響で、16日も日本海側を中心に猛暑日となる見込みです。

 暑さは土日も続く見込みで、熱中症に警戒が必要です。

 気象庁によりますと、15日は台風10号の周辺から暖かい空気が流れ込んだ影響で、新潟県と山形県、それに石川県で、最高気温が40度を超えたほか、新潟県糸魚川市では朝や夜も気温の高い状態が続き、一日を通しての最低気温は31度3分と、最低気温としては国内で過去最高となりました。

 16日も各地で気温が上がる見込みで、日中の最高気温は埼玉県熊谷市で36度、富山市や鳥取市などで35度と猛暑日が予想されています。

 土日も気温が高く、17日の最高気温は埼玉県熊谷市で38度、甲府市で37度、東京の都心で36度、名古屋市や京都市で35度と予想されています。

 18日も猛烈な暑さが続く見込みで熱中症に警戒が必要です。
| 環境とまちづくり | 06:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
天皇陛下 初の全国戦没者追悼式でおことば

 終戦の日の15日、天皇陛下は皇后さまとともに、初めて全国戦没者追悼式に臨み、戦争が繰り返されないことを願うおことばを述べられました。天皇陛下のおことばは、上皇さまの戦争と平和への思いを受け継ぐものとなりました。

 終戦から74年を迎えた15日、天皇皇后両陛下は、東京の日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に臨まれました。

 両陛下は、これまで毎年終戦の日にはお住まいなどで黙とうしてきましたが、代替わりを経たことし、上皇ご夫妻にかわって初めて式典に出席されました。

 そして、正午の時報とともに参列者全員で黙とうをささげたあと、天皇陛下が、戦後生まれの天皇として初めてとなる、おことばを述べられました。

 天皇陛下は冒頭で、これまでの上皇さまと同様、「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と述べられました。

 そして、戦後の日本の歩みを振り返る部分では、上皇さまのおことばの「苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません」という表現を、「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります」と言いかえられました。

 そして、戦没者を追悼し平和を願う結びの一文では、上皇さまの「深い反省とともに」という表現を、「深い反省の上に立って」と言いかえ、「再び戦争の惨禍が繰り返されぬことをせつに願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べられました。

 天皇陛下のおことばは、戦争を体験していない世代として言い回しが変えられた部分はあるものの、「深い反省」という表現など、上皇さまのこれまでのおことばをほぼ踏襲し、戦争と平和への思いを受け継ぐものとなりました。

 式典の会場では、参列した遺族の代表らが、天皇陛下のおことばにじっと耳を傾けていました。

◇天皇陛下のおことば全文

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

◇上皇さまの思い受け継ぐ
 戦後生まれの天皇陛下は、上皇さまの思いを大切に受け継ぎながら、戦争の歴史と向き合い平和を願われてきました。

 上皇さまは以前、日本では記憶しなければならない4つの日があるとして、終戦の日と、広島、長崎の原爆の日、それに、沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」を挙げ、これらの日には欠かさず黙とうされてきました。

 天皇陛下も子どもの頃から、これらの日には黙とうし、上皇ご夫妻から戦争の悲惨さについて話を聞かれてきました。

 昭和の時代、上皇ご夫妻は、沖縄から上京した「豆記者」の子どもたちと毎年のように懇談されていましたが、まだ子どもだった天皇陛下もこの懇談にたびたび加わり、沖縄の歴史や文化への理解を深められました。

 天皇陛下は、昭和62年に初めて沖縄を訪れ、戦没者の慰霊に臨んだほか、「ひめゆりの塔」では、戦争当時の女学生たちから話を聞かれました。

 天皇陛下は、この訪問について、のちの記者会見で、「戦争の痛ましさ、そして戦前、戦後と沖縄のたどてきた苦難の道に思いを致しましたし、それと共に平和の尊さ、そして大切さというものを強くかみしめました」と振り返られています。

 平成に入り皇太子になると、天皇陛下は、戦争と平和への思いを行動で示されていきます。上皇ご夫妻から「豆記者」との懇談を受け継ぎ、去年まで毎年のように沖縄の子どもたちなどと交流されてきました。

 広島や長崎を訪れる機会があると、戦没者の慰霊に臨む一方で、被爆者が暮らす施設をたびたび訪れ、そのことばに耳を傾けることを大切にされてきました。

 また、平成19年のモンゴル訪問の際には、第2次世界大戦後、旧ソビエトによって抑留され、過酷な労働で命を落とした日本人の慰霊碑を訪れ、花を手向けられています。

 戦後70年を迎えた平成27年、天皇陛下は、誕生日にあたっての記者会見で、「私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」と話されました。

 また、翌年の会見では、「過去の経験に少しでも触れる機会を通じて、戦争の悲惨さ、非人道性を常に記憶にとどめ、戦争で亡くなられた方々への慰霊に努めるとともに、戦争の惨禍を再び繰り返すことなく、平和を愛する心を育んでいくことが大切だと思います」と述べられています。

◇愛子さまはお住まいで黙とう
 天皇皇后両陛下の長女の愛子さまも、お住まいの赤坂御所で、正午の時報にあわせて黙とうをささげられました。

 宮内庁によりますと、愛子さまは、毎年、終戦の日には、両陛下とともに黙とうをささげてきましたが、ことしはお一人で黙とうされました。

 愛子さまは、これまで、両陛下と戦争に関する展示会を訪れたり、遺族の話を聞いたりして、戦争や平和への考えを深められてきました。

 中学生の時には、修学旅行で広島市の平和公園を訪れ、その経験をもとに卒業文集に「世界の平和を願って」と題する作文を寄せ、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う」などと記されています。

◇「説得力のあるおことば」 ノンフィクション作家 保阪氏
 ノンフィクション作家の保阪正康さんは、天皇陛下のおことばについて、「戦争を体験していないという前提に立ちながらも、上皇さまや昭和天皇の思いを引き継いでいるかなり説得力のあるおことばだと思った。戦争を直接は知らないけれども、その悲惨さを伝えていきたいといった天皇陛下の思いが込められていて、安ど感や安らぎのような気持ちを覚えた」と述べました。

 また、上皇さまが「深い反省とともに」と述べられていた部分を、天皇陛下が「深い反省の上に立って」と言いかえられたことについて、「これは重要な違いで、上皇さまのことばは、同じ時代を歩みながら戦争を受け止めてきた立場でのものだが、天皇陛下のことばは、戦争を歴史的な見方で捉えたうえで、『深い反省』を自分が次の時代につないでいくという思いをあらわしたものだと言える」と話していました。

◇「遺族への気持ちが強く伝わってくる」
 追悼式に出席した沖縄県遺族連合会会長の宮城篤正さんは(78)天皇陛下が皇太子として沖縄を訪ねられた際にことばを交わしたこともあり、15日のおことばに注目していました。

 おことばについて宮城さんは、「遺族への気持ちが強く伝わってくるもので、上皇さまの思いを確実に受け継いでいらっしゃると感じられ、よかったと思います。戦没者に対する哀悼のことばも非常に思いのこもったものでした」と話していました。
| 政策 | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
終戦から74年 全国戦没者追悼式

 終戦から74年を迎えた15日、およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われました。

 令和になって初めてとなる式典には、全国から遺族の代表など6201人が参列しました。ことしは台風10号の影響で宮崎県の遺族など64人が急きょ出席を見送りました。

 天皇陛下は、皇后さまとともにことし5月に即位されてから初めての出席となる式典に臨み、菊の花で飾られた式壇に着かれました。

 続いて、安倍総理大臣が、「今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも決して忘れません。ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは昭和、平成、そして令和の時代においても決して変わることはありません」と式辞を述べました。

 そして、参列者全員で1分間の黙とうをささげました。

 続いて、天皇陛下が、「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことをせつに願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」とおことばを述べられました。

 このあと、遺族を代表して、昭和19年12月に東部ニューギニアで父親を亡くした横浜市南区の森本浩吉さん(77)が、「私たちの多くは父の顔も知らず、父との記憶思い出さえない忘れ形見の遺児です。戦没者の遺骨収集を国の責務と明記した法律に基づきご遺骨の一柱でも多く一日でも早く祖国帰還が叶いますことを遺族は強く望んでいます。今日、平和を享受しているのは多くの尊い犠牲が礎であることを決して忘れることなく、感謝し偲んでいただく日々となることを望んでいます」と述べました。

 式典では、このあと、参列者が式壇に菊の花を手向けて、戦争で亡くなったおよそ310万人の霊を慰めました。

 終戦から74年を迎えて遺族の高齢化が進み、参列した遺族のおよそ8割が70歳以上となり、戦没者の妻は5人にとどまっています。

 その一人で、最年長の参列者でもある東京都に住む97歳の内田ハルさんは、昭和20年6月に沖縄で、夫の憲司さん(当時36)を亡くしました。

 内田さんは、「毎年欠かさず参列しています。戦争は絶対いけません。私のような悲しい人がいっぱいいる。二度としてはいけない」と話していました。

 また、戦争の記憶を受け継いでいこうと、18歳未満の若い世代が95人式典に参列しています。

 このうち、香川県の中学3年生、三谷昇大さん(14)は、曽祖父の實吾さんが昭和20年にビルマで戦死しています。

 三谷さんは、「修学旅行で行った沖縄で実際にひめゆりの塔やガマを見学して戦争の悲惨さを思い知りました。きょうは、ひいおじいちゃんへの慰霊の気持ちをしっかりともって、献花したいです」と話していました。

◇上皇ご夫妻も黙とう
 宮内庁によりますと、上皇ご夫妻も、お住まいの吹上仙洞御所で、テレビの中継番組を通じて戦没者追悼式をご覧になりました。

 そして、正午の時報とともに、黙とうをささげられたということです。

◇各地の追悼式 台風影響で中止や延期に
 15日は全国各地でも戦没者の追悼式が開催されましたが、台風の影響で西日本を中心に中止や延期が相次ぎました。

 このうち、愛媛県では参列者の安全を考慮して、14日中止を決めました。

 昭和62年から開催してきた追悼式を中止したのは初めてだということです。

 また、福岡県や熊本県でも中止になったほか、愛知県では延期となりました。

 このほか、広島市の平和公園で被爆者や高校生たちが戦争や核兵器のない世界の実現を願って「平和の鐘」を鳴らす催しや、大阪市の「戦争犠牲者追悼式と平和コンサート」、大分市の特攻隊員の慰霊祭など「終戦の日」に合わせた行事も各地で中止や延期となっています。
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台風10号 九州や四国の一部が暴風域に 西日本に上陸・縦断か

 大型の台風10号は、九州や四国の一部を暴風域に巻き込みながら北上し、15日、西日本に上陸し縦断する見込みです。

 四国を中心に降り始めからの雨の量が多いところで1200ミリを超える記録的な大雨になるおそれがあるほか、瀬戸内地方など、ふだん雨の少ない地域でも大雨になる見込みです。

 土砂災害や川の増水、暴風や高波などに警戒し、早めに安全な場所に避難するよう心がけてください。

 気象庁によりますと、大型の台風10号は、午前5時には、高知県の足摺岬の南西130キロの海上を、1時間に20キロの速さで北へ進んでいるとみられます。

 中心の気圧は975ヘクトパスカル、最大風速は30メートル、最大瞬間風速は45メートルで、中心から東側330キロ以内と西側170キロ以内では、風速25メートル以上の暴風が吹いています。

 この時間、九州や四国などが暴風域に入っているとみられ、西日本の太平洋側を中心に発達した雨雲がかかっています。

 午前4時までの1時間には、高知県仁淀川町の鳥形山で55ミリの非常に激しい雨が降ったほか、国土交通省が奈良県上北山村に設置した雨量計で46ミリ、愛媛県が宇和島市に設置した雨量計で33ミリのいずれも激しい雨を観測しました。

 これまでの雨で、鹿児島県と大分県、愛媛県、徳島県では、土砂災害の危険性が非常に高まり「土砂災害警戒情報」が発表されている地域があります。

 風も強まり、高知県の室戸岬で午前4時前に35.5メートル、奈良県十津川村風屋で午前3時前に29.4メートルの最大瞬間風速を観測しました。

 台風は、今後も北上を続け、15日西日本に上陸し、縦断する見込みです。

 台風本体や周辺の発達した雨雲がかかる地域では、16日にかけて局地的に1時間に80ミリ以上の猛烈な雨が降るおそれがあります。

 15日夜遅くまでの24時間に降る雨の量は、いずれも多いところで、

▽四国で1000ミリ

▽東海で700ミリ

▽近畿で500ミリ

▽九州北部で400ミリ

▽中国地方と九州南部で250ミリ

▽北陸と関東甲信で200ミリと予想されています。

 その後、15日の夜には台風は日本海に抜けて北東に進む見込みで、15日夜遅くから16日夜遅くまでの24時間には、

▽北海道と東海で200ミリから300ミリ

▽北陸と近畿で100ミリから200ミリ

▽東北と関東甲信で100ミリから150ミリなどと予想されています。

 降り始めからの雨量がすでに500ミリに達しているところもあり、四国や紀伊半島の南東斜面を中心に、多いところでは総雨量が1000ミリから1200ミリを超える記録的な大雨になるおそれがあります。

 また、瀬戸内地方などふだん、雨の少ない地域でも大雨になるおそれがあります。

 15日は、西日本の太平洋側を中心に猛烈な風が吹く見込みで、最大風速は

▽四国で30メートル

▽九州北部で27メートル

▽近畿と中国地方、九州南部で25メートル

▽鹿児島県の奄美地方で23メートル

▽東海と北陸で22メートルなどで、

最大瞬間風速は35メートルから40メートルと予想されています。

 海上はすでに猛烈なしけとなっているところがあり、波の高さは、

▽四国で10メートル

▽九州、近畿、それに東海で9メートルと予想されています。

 また、今は潮位の高い大潮の時期にあたり、台風の接近する時間帯は、海岸や河口付近の低い土地で高潮のおそれがあります。

 土砂災害や川の増水、低い土地の浸水、暴風や高波、高潮に警戒し、台風の進路に当たる地域では雨や風が激しくなる前に早めに安全な場所に避難するようにしてください。
| 環境とまちづくり | 06:13 | comments(0) | trackbacks(0) |